すごく好きだった

スガシカオに『夕凪』なんて名前の曲は無かった。

 

その曲の本当のタイトルが『夏陰』であることを思い出してもなお、「でも『夕凪』か『夕なぎ』という曲がすごく好きだった気がするのに…。」というモヤモヤが残っているので無論すぐに検索してみたが、それらしき曲に心当たりは無かった。

 

我ながらおかしな話である。

 

「すごく好きだった」はずなのに「気がする」とは何事か。

 

すごく好きだと思える曲はそうそうない。

 

にも関わらず、その強い印象だったものがどうしてそんな曖昧なことになってしまうのか。

 

しかし、そういうものが最近ときたま出てくるのだ。

 

「当時はあんなに好きで熱中していたのに、どうして今はこんなに思い出せないのだろう…あの「好き」は一体何だったのだ、果たして本当に好きだったのか自分よ…。」

 

嫌いなものとかそういうネガティヴなものなら分かる。

 

人間の機能のひとつとしての「忘却」が防衛機制反応の一種として働いた結果なのだろうと思える。

 

しかし「すごく好き」はどうか。

 

脳内でそれが削除された記憶なのだとしたら、その現象は完全にバグである。脳の誤作動だ。

 

それが「老化」というもののひとつなのだとは認識しつつも、にわかには納得できず半ば言い訳のような愚痴のような、いかんともしがたいやり切れない気持ちゆえ、出社前の時間帯にこんな文章を打っている次第です。

 

諦めの悪い自覚はある方なので、心当たりを検索し尽くして心折れるまでは、自分の中にあったはずの「夕凪と名の付くすごく好きだった何か」を探す時間は続きそうである。

薬に頼りたくない。でも、頼りにしてほしい。

痛みを、愛しているのかもしれない。

 

「人は、悲しい時にはちゃんと、悲しい、をしないといけない。部屋でひとり膝を抱えて泣く夜も必要なのよ。」

 

昔見たドラマで確かそんな科白があったのを、今でも時々思い出す。

 

だからなのか、何か辛いことなんかがあったときに人は「酒でも飲んで忘れてしまえ。」とか言うけれど、そういうのはなるべく避けたい。

 

この辛かったり悲しかったり痛かったりするのは自分にとって大事な感覚で、ちゃんと感じるべきもんなんだと思うから。

 

だから、安易に痛み止めとか飲みたくない。

 

ないんだけど。

 

親知らずの痛みは別らしい。

 

抜く前、痛みに負けじと歯痛を受け止めにかかった夜もあったけど、それはもう筆舌に尽くしがたい耐えがたさだった。

受難、という言葉が浮かんだ。

 

自分が今、生きていることは十分に実感できたので、あとのことは手持ちのロキソニンに任せることにした。

 

親知らずにせよ何にせよ、何かを失う時の痛みはしばしば、並ではなかったりする。

 

薬でなんとか出来るだけマシなのだ。

 

大切な人のどうにもならないような痛みを和らげる、ロキソニン的存在になれやしないかと思ったりする。

 

けれど、そういう相手に限って痛みも大事にしてたりするから難しい。

 

痛み止めを混ぜたチョコを黙って食べさせるみたいなやり方がスマートに出来たらいいのに。

続けること。

何が、

 

目指せ、ほぼ日〜〜

 

じゃ〜〜い。

 

なしてそんなん言うてしまうんじゃろ。

どうせ出来んのに。

 

飲み切らずに残った抗生物質

読み切らずに止まった文庫本

使い切らずに古びたノート

 

何かを続ける、最後までやりきる

出来た試しがない。気がする。

 

元旦から始めた日記も三が日まで持てばいい方で、今回みたく二日も続かないなんてことザラである。

 

かと言って「向いてない。」とかの一言で逃げるのはダセェ、と感じる。

 

いつか、続けられる人になること。

人生レベルでの目標のひとつ。

 

いつか、とか言ってる時点でそんないつかは一生来ねぇよ。

 

たしかに。明日やろうは馬鹿野郎というではないか。

 

何かひとつでいい。何か。

こんなやつでも出来そうなこと。

過去には続けられていたけれど、いつの間にか疎かになっちゃってること。

 

そうすね。

とりあえず、毎日、食べることから始めてみましょか。

 

毎日、必ず一食は食べること。

休みの日でも。

ポテチとか柿の種とかじゃなく、食事を。

 

休日ベッドから出れない病を患っている人間にとってはこれ、結構なかなかのハードルなんすよ。

 

これ打ってるのもまさに休日のベッドの中からだし。

 

ああでもそう言えば、食べることより優先して続けなきゃいけないことがあった。

 

毎日休まずに会社へ行くこと。

 

はい。これ言った時点でこいつ社会人として外れてるやつ確定〜〜

 

そうです。今、ぼくは人が当たり前にやっていることが出来ない人間なのです。

 

そういう人間のことを世間一般では「クズ」「ダメ人間」「社会不適合者」といい、なるべく関わりを持ってはいけない部類の生き物として極力遠巻きに、具体的には同僚の中にそういった者がいても安易に心配したり手を差し伸べたりせず、冷ややかな目で視界の端っこにかろうじてその存在を認識し距離を保つとか、あるいは無視するなどしてそいつが退職するまでやり過ごすことが推奨されています。

 

少しばかり大袈裟ですけど、まぁでも大体こんなもんです。

 

まっとうに生きてる人からすれば、自分みたいなのは嫌悪と蔑みの対象でしかないわけで、そんなやつと一緒に仕事したいわけがないという、至極当然のお話。

 

にも関わらず、ですよ。

 

こんなぼくなんかのことを気に掛け、親身になってくれる人もいるわけです。

 

その人にとっては仕事の一部かもしれないし、半ば意地なのかもしれないし、実はもう諦めてるのかもしれないし、本当の本当はどう思ってるのかなんて分からないけれど、それでもぼくにとっては「この恩を返す為には、ここで頑張らなければ…。」と、毎朝遅刻ギリギリでなんとかベッドから起き上がれる一番の理由なわけです。

 

こんなぼくを見限らず、捨て置かずにいてくれてる人たちの為にも、一刻も早く、人間にならなければ…。

 

その為にはまず、必ず毎日休まず出社すること。

そしてその為には毎日、食べて眠ること。

毎日、毎日、途切れずに。

繰り返し続けること。

 

今、ぼくの中では

 

仕事する為に生きる

生きる為に仕事する

 

この二つが日々、目の前でぐるぐると入れ替わりながら回っている。

 

生きていくだけで精一杯だなんて、子供の頃の自分が見たらどう思うだろう。

 

見られたくない、こんな姿。

 

そう思うことばっかりだ。

 

しかし、それも自分。

生きている、今の自分。

 

昨日より今日、今日より明日。

ほんの僅かでもマシに生きることが出来たら。

それを繰り返し積み重ねていけたら。

いつかは、いつかはなれるだろうか。

なりたい自分とやらに。

自分自身が一番嫌悪し、蔑んできた自分から遠く遠く離れて。

ブログ書くなんて、いつ振りだろか。


はてぶ、おはつです。


ふむふむ。編集画面での入力フォントは明朝体ぽいのね。


しっとりしたのとか落ち着いたゆっくり目の文が似合う文字だ。


テメーコノヤロー、みたいのは何か違うな。うん、違う。


何を言ってもさして支障なさそな場所だけど、残したいものだけ残しておければな。出来れば。


まぁでも結局、誰も見ちゃいないだろうからっつって、どこへ誰へ吐けるでもない吐き出したいこととか置いちゃうかもだけど。


んであとになってまた人知れず消したりするのかもだけど。


なるべーく、残していけるよーに。


思う事とか、思考の整理にとか、メモ代わりにとか。


私も、目指せほぼ日〜〜