すごく好きだった

スガシカオに『夕凪』なんて名前の曲は無かった。

 

その曲の本当のタイトルが『夏陰』であることを思い出してもなお、「でも『夕凪』か『夕なぎ』という曲がすごく好きだった気がするのに…。」というモヤモヤが残っているので無論すぐに検索してみたが、それらしき曲に心当たりは無かった。

 

我ながらおかしな話である。

 

「すごく好きだった」はずなのに「気がする」とは何事か。

 

すごく好きだと思える曲はそうそうない。

 

にも関わらず、その強い印象だったものがどうしてそんな曖昧なことになってしまうのか。

 

しかし、そういうものが最近ときたま出てくるのだ。

 

「当時はあんなに好きで熱中していたのに、どうして今はこんなに思い出せないのだろう…あの「好き」は一体何だったのだ、果たして本当に好きだったのか自分よ…。」

 

嫌いなものとかそういうネガティヴなものなら分かる。

 

人間の機能のひとつとしての「忘却」が防衛機制反応の一種として働いた結果なのだろうと思える。

 

しかし「すごく好き」はどうか。

 

脳内でそれが削除された記憶なのだとしたら、その現象は完全にバグである。脳の誤作動だ。

 

それが「老化」というもののひとつなのだとは認識しつつも、にわかには納得できず半ば言い訳のような愚痴のような、いかんともしがたいやり切れない気持ちゆえ、出社前の時間帯にこんな文章を打っている次第です。

 

諦めの悪い自覚はある方なので、心当たりを検索し尽くして心折れるまでは、自分の中にあったはずの「夕凪と名の付くすごく好きだった何か」を探す時間は続きそうである。